鎧の身体になってから僕は
寒いとか痛いとか眠いとかお腹が空いたとか。
そういうのを感じることがなくなった。
感じないものはないものと同じで、日々慌しい旅の毎日の中で僕は、それを普段あんまり考えたりすることは敢えてしないのだけれど。
嬉しいとか楽しいとか感じる気持ちまでなくなってしまわなくなって良かったと。
ここに来るたび、そう思ったりもする。
キス ミー テンダー
鎧の頭の部分に衝撃を受けたことより、がこんという大きな音がしたのにびっくりした。
慌てて事態の把握に努めようとしたけれど、何のことはない、執務室に鎮座している立派な本棚に収まっている本の中から目に付いた一冊を手を伸ばして取り出したときに、ついでにくっつい来た一冊が頭にぶつかっただけだった。
室内に差し込む夕焼けは上質な木の本棚を黒く艶めかせていて、あぁ明日もお天気が良さそうだなぁなんてぼんやり考えていたら手元が狂ったのだ。
「アルフォンス?」
「何やってんだアル? 大丈夫か?」
後ろ二箇所から同時に声がかけられる。机に積まれた書類に視線を流していた大佐と、ソファに偉そうに腰掛けて(大概いつも兄さんはここに来ると特に態度がでかいのだけれど)少し前に同じ本棚から取り出した分厚い書物の文字を追っていた兄さん。二人が顔を上げたタイミングはぴったり一緒で、バツが悪くて僕は咄嗟に返事が出来なかった。
額部分を直撃したのち、バウンドしてどさりと床に横たわった本を慌てて拾い上げる。角がぶつかったみたいで、金属の塊と接した背表紙が少しだけへこんでいた。
あぁどうしよう、大佐の執務室にあるくらいなんだから、きっと高い本なんだろうに。
「ごめんなさい大佐、本が痛んで…」
無駄のない、流れるみたいな動きで近づいてくる大佐に精一杯身を縮めて謝ると、
「それは構わないが、君は大丈夫だったのか? すごい音がしたぞ」
そう言って僕を手招いて、屈んで頭を見せるよう仕草で促がされた。
「え、僕は大丈夫です」
―――鎧だし。
こんなふうに言うとその黒い目が途端に僕を諌めるように見るのは判っていたけれど、心配そうな顔をした兄さんまでが寄ってきて、僕は気恥ずかしくて居たたまれないような気分を何とか壊そうと思わずそこまで口にしてしまった。
僕の額辺りを検分していた大佐は案の定、その整った眉をほんの少しだけ寄せて僕に目を合わせた。(かどうかは、鎧の身体では視線なんてないから、合っているかどうかは大佐には判らないだろうけれど。)
へこんでたら兄さんに直してもらうし、と慌てて続けようとした言葉は、けれどそこで途切れさせざるを得なかった。
僕の心境が伝わったわけでもないんだろうけれど、大佐はほんの少し表情を柔らかくして微笑む形を作って。
屈みこんだ僕に、顔を近づけて。
その唇を僕のおでこに、ちゅっと可愛らしい音を立てて触れさせたので。
「な…ッ!」
僕より、先に言葉を発したのは兄さんだった。
「何すんだよ?!」
まるでキスされたのが自分かのような兄の過剰とも言える反応に、僕はびっくりするタイミングをすっかり逃してしまった。
もっとも兄さんは、この大佐が少しでも関わっていることに対しての反応はいつもこんな具合だ。例えば、ここから遠い旅先で、名前を少し出しただけでさえ。
以前は、そんなに大佐のこと嫌わなくても、なんて毎回兄さんを宥めていたけれど、どうやら兄の心情は彼をただ嫌っているわけじゃないらしいことにいい加減僕も気付いてきた。以来なんだか馬鹿馬鹿しくて、その件に関しての兄さんへの苦言は敢えてしないことにしている。
なので僕は、二人が言い合いを始めた時の対処方法にもすっかり慣れっこになっていて、会話のすべてを完全に聞き流す体勢に入っていた。そのため、大佐が続けた話の流れに付いて行きそびれていて、言葉を聞きとめたときには思わず唖然とするという間抜けぶりを晒してしまった。
「おまじないだよ」
「…え?」
「古い習慣らしい。もう二度と怪我をしないようにと念じてするものだそうだ」
「……は?」
「同時に呪文を唱えるんだが、それはよく知らないのだよ。確か、痛みを『飛ばす』という定義のようだったが…」
「……」
「いや、何かに移し取るという概念だったかな?」
「……」
「君たちは知らないかい?」
もちろん僕はそれを知っていた。大佐の言い方では、それはなんだか酷く堅苦しくどこか呪術めいた感じで、僕の知っているそれと果たして同じものかどうかいまいち自信がなかったけれど。
それでも、遠い昔に母さんがしてくれたその『おまじない』が記憶の奥から無理やり引っ張り出された。
夕焼け色の濃淡の影を映す毛足の長い青い絨毯。
夜風に揺らぐランプの炎。
台所から漂うシチューの匂い。
兄さんとウィンリィの心配そうな顔と、熱を出していた僕には冷たく感じられた二人の小さな手。
そして、母さんの暖かさ。
感触も匂いも感じなくなって結構な時間が経ったというのに、そんな記憶が昨夜のことみたいに鮮やかに蘇ってちょっとびっくりするくらいだった。
覗き込まれるように問いかけられて、僕はこの大人になんて答えればいいものかとしばらく逡巡してしまった。兄さんも多分別の意味合いで言葉が出てこないらしく、釣り上げられた魚みたいに口をぱくぱくさせるのに忙しくて全く頼りになりそうにもなかった。
痛みを飛ばすという定義で合ってはいるとは思いますが、その方法は違ってます、大佐。キスするんじゃなくて、掌でさすって痛みを飛ばす仕草をするんです。
『呪文』ってのは、ちょっと大袈裟じゃないですか、大佐。
ちなみに『痛いの痛いの飛んで行け』と言うんですよ。
もう怪我をしないようにというおまじないじゃなくって、転んだりして痛がってる子どもを宥めるための行為です。
兄さんと違って僕は子ども扱いが嬉しくないわけじゃないんですけれど、それはもっととっても小さな子ども相手にすることで、大佐にしてみればそりゃ僕たちは子どもかもしれないけれど、さすがに適応外なんじゃないかと思います。
大佐がおまじないなんて意外ですね?
途方に暮れて巧く回らない頭で一度にあれこれ考えたのに、口が勝手にしゃべったのは別な言葉だった。
「…それって、教えてくれたの中佐ですか?」
言ってしまった後で何だけれど、瞬時に嫌な予感が空洞の身体の中を駆け巡った。要するに、兄さんの起爆剤になりそうな予感が。
どうも今日の僕は失言大王だ。
「よく判ったね」
黒い目が一瞬大きく見開かれて、そんな顔をすると童顔のこの大佐は実際の年よりももっともっと若く見える。気にしてるみたいだから、これ以上大王記録を伸ばさないためにも言わないけれど。
それより今問題なのは、右斜め後ろに立ってる兄さんの気配。
「……ヒューズ中佐がエリシアにしてんの見たのか?」
「あぁ、いや…。でもエリシアにもしているのだろうな。子どもはしょっちゅう転んだり跳ねたりして怪我が付き物だ」
「に、も?!」
そう繰り返す兄さんの顔が怖い。声も怖い。兄さん、もしここにあの小さなエリシアがいたらきっと泣いちゃうよ。
「中佐はエリシア以外の人間にもそれをしてるって事で、それは要するに、あんたに、ってこと?」
「最近ではめっきり省略されて、あいつもその呪文を唱えないからな」
「最近だぁ?!」
「だから私も忘れてしまったと言うか、そもそもあいつがその呪文をきちんと言ったのは、最初の1回だけだった気がする」
――だから私は、未だにそれの全容を良く知らないのだ。
知らないことがあるのが単純に悔しいみたいな憮然とした口調で、大佐は兄さんが何に怒っているのかまるで判っていない顔をしていたけれど。
「まぁ君も知ってのとおり、あいつは心配性は常軌を逸しているし」
兄さんの上昇一方の怒りボルテージには取りあえず気付いてくれたらしく、珍しく少し引き気味に言葉を続けた。
「私も非科学的だといつも言うのだが、あいつは全く取り合わないし」
その『おまじない』をこの人に説いたヒューズ中佐の意図はさておき、大佐は大真面目に完全に騙されてる。どんな人物とも狡猾に渡り合えるような大佐が、あの親友にだけはそんなふうにからかわれたりするのが兄さんにはまた面白くないんだろうな、とは察することはできた。
二人の間に流れる信頼しあっている大人特有の穏やかな気配を、僕はとても微笑ましくて素敵なことだと思うのだけれど。
兄さんも難しい年頃だね。恋する少年のオトコゴコロは複雑だ。
「それであいつの気が済むのなら、害のあることでもないし好きにさせているのだ。いちいち反論すると煩くて面倒だしな」
「ッ、この無能!」
「…鋼の? 何を突然怒っているんだ?」
「うっせーよ!」
「君だって、この前ヒューズに言い負かされただろう」
「んなこと言ってんじゃねぇ!」
「じゃあ何だね?」
「…ッ」
そう切り替えされても、そりゃ兄さんは言葉に詰まるしかないだろう。言っとくけど、僕は助け舟は出さないからね。
「中佐の言うこといちいち間に受けんなって、俺にいっつも言ってんのあんただろ!」
「確かにそうだが、…今の話と繋がっているのか?」
「繋がってんだろーが!」
「……鋼の、会話というものはもう少し判り易く進めるべきものだぞ」
どうにも噛み合っていない不毛な会話に、実際はそんなこと出来ないのだけれど、僕は鎧の身体で気持ちだけ溜息をついて兄さんと大佐の間から離れるべくそっとその場を後ずさった。
「あぁ、心配しなくても、可愛い弟を君から取ったりはしないよ」
「そっちのが繋がってねぇじゃねぇか! わっけわかんねぇ事言うな!!」
どんどんエキサイトしていく会話の終結方法が少し心配ではあったのだけれど、僕としては巻き込まれるのはごめんだったので逃亡を続行することにする。いよいよ収拾が付かなくなっても中尉や少尉たちが隣の部屋にいるから、執務室が全壊する前に何とかしてくれるだろう。
「だいたい何だよおなじないって! 俺が怪我してたって、んな事あんた今まで一回もしたことねぇだろ!」
「何だ、君もして欲しかったのか?」
「…ち、違ッ!」
「君も案外可愛いな。民間的なまじないなど信じるようなタイプではないと思っていたのに」
「違うっつってんだろ!!」
「しかし君は常に無茶ばかりするようだから、まじないなぞしたところで何の効果もなさそうだな」
どんなに慎重にしたって身動きするたびにがしゃんという金属音が零れるのだけれど、この時は二人とも会話の応酬に忙しく、僕がその場を離れたことに対して二人とも意見しなかった。
「僕、中尉たちとお話してくるね」
小さな声だったからきっと二人には聞こえていないだろうけど、一応言ったことは言ったのだから後で兄さんに何か言われても反論は出来るだろう。
静かにドアを開けて入り口を潜る時も、二人の言い合いはまだ途切れることはなく、
「勝手に決めんなよ! 効果があるかないかなんて、やってみなきゃわかんねぇだろ!」
「ふむ、まぁそうだな。何事も実証してみなければ確かに言い切れない」
それをもう一つ溜息で聞き流して、背中でそっとドアを閉めた。
どうしてあの二人は、話をややこしくしないと気が済まないんだろ。
―――兄さんが素直に肯定すれば済む話なのにな。
なんて考えてみてから、そのあまりにらしくない兄の姿を想像して扉の前で一人で噴出しそうになってしまった。
兄弟としては少々複雑ではあるのだけど、弟に生まれたからには兄の味方をするのは致し方のないことなので、黙って成り行きを見守りつつ、素直じゃない兄を宥めているうちにそう言えば東方指令部に立ち寄る回数は前より格段に多くなったような気がする。会えば会ったで二人の間には喧嘩みたいな会話しかないのだけれど、それでも東部にいる間の兄さんの顔は弟の僕にしか気付かない程度ではあっても楽しそうなので、素直じゃないなぁと我が兄ながらそのたびに呆れてしまう。
兄さんが楽しいのは単純に僕も嬉しい。心の奥底に潜んでいて整理に手をつけていない複雑に入り組んだ部分ででも、兄の大佐への特別といっていいような感情は、僕の中でも多分『嬉しい』の部類に振り分けられると思う。
安堵、とも言い換えの効くものであるかもしれないけれど。
あの日以来、兄さんは僕の身体を取り戻すことだけを優先に生きている。言葉でも実際そう言われることもあるけれど、兄の決意はそれ以外が組み込まれる余地のないことを、共に旅をしてきていちいち言葉にされなくても誰よりもよく知っている。
だからこそ。
時々、本当にごくたまに少し不安な気分になるのは、兄さんには言えないことの一つだ。
いつか、自分の存在が兄の負担になる日が来たら。お前のために、俺は何もかもを我慢をしてきたのだ、と。
そう言葉にはされないまでも、生まれたときからの付き合いで大体の感情の機微など読み取れてしまうだけに。
兄さんを信じていないわけでは決してないけれど。
けれど、二人だけで閉じてしまうにはこの世界は優しく作られてはいないのはもう知っている。
だから、兄さんが大佐を好き(とはっきり言うと本人はそれこそ言葉では精一杯否定して、その後しばらく照れ隠しに機嫌が悪くなるので言わないけれど)なのが判った時に、僕の心に落ち着いたのは言葉にすると安堵というのが一番しっくりくるのだろうと思う。目的のためだけに生きて他を切り捨てるというのは、容易に叶う事はないであろう僕たちの願望のためには正しいことかもしれないけれど、多分いつかどこかで破綻するリスクが高いような気がするから。
だからこうしてここを訪れることは、僕にとっては精神的安定の一つになっているのかもしれない。
「あら、アルフォンスくん、どうしたの?」
大佐の部屋に隣接する扉を開けると、ホークアイ中尉が三つのカップを載せたトレイを手にしてこちらに向かってくるところだった。
「コーヒーを入れたのだけれど、大佐とエドワードくんは?」
「あー…えぇと、今ちょっと議論中と言うか何と言うか…」
「あぁ、また喧嘩?」
「えぇ、…まぁ」
「喧嘩するほど仲が良いとは、よく言うものね」
わりと問題発言に属することを、この綺麗な中尉はいつもさらりと言い放つ。ヘイゼルの瞳を長い金色の睫に伏せて、いつでも冷静な顔をして、この人はどこまで何を知っているんだろう。
まぁあの判りやすい兄の態度の意味なんて、きっとこの人には簡単に全部お見通しなんだろうけれど。すみませんいつも兄がご迷惑を、なんてなんで僕が謝らなきゃいけないのか、ほんと理不尽だなぁと思う。でもこれも、弟に生まれついたからには仕方がないと諦めるしかない。
「いいえ、こちらこそ。いつも大佐に付き合ってもらって申し訳ないわ」
「そんなことないです。いつも兄さんの方から大佐に喧嘩売ってばっかりだし、そもそも兄さんにとって、大佐と喧嘩するのが一種の楽しみみたいな感じになってるのが問題で…」
「そう? エドワードくんもそうなら良かったわ」
「も?」
「えぇ。ああ見えて大佐も何かとストレスが多くてね」
冗談ぽく言われるのが、却って本当っぽい。そうなんだろうなと僕でも思う。軍なんていう特殊な組織で、周りより格段に若くしてあの地位にいるのだ。大佐の事だからきっと巧く対処して偉い人たちとも渡りあえているんだろうけれど、それでもきっと大変なことはたくさんあるんだろうとは、何も知らない僕でも漠然と想像はできる。
「エドワードくんでそれを解消するのは大人気ないと、ご自分でも判ってるみたいだけれど」
「はぁ、でも少しでも大佐のお役になっているなら良かったです」
あんなはた迷惑でしかないような兄の行動が。
そう言うと、中尉は初めて見る顔をして笑った。
「でも贅沢なことに、エドワードくんだけじゃ解消しきれないみたいなのよ」
まるで、悪戯を思いついた少女みたいな顔をして。
「たまに、エドワードくんだけでここに来ることがあるでしょう?」
「あ、はい」
効率の観点から時々する別行動。兄さんがここに報告書を出しに来ている間、僕は一人で図書館に行ったりもする。
「そうすると、大佐は決まってまずあなたの行方を聞くのよ」
「……」
「なんで一緒に連れてこない、ってエドワードくんに突っかかって結局また喧嘩になるのだけれど」
でもあななたちが来る予定の日は、大佐は朝からご機嫌がいいの。そう言って、手にしたトレイを持ち直しながら仕方ないっていうみたいに溜息混じりに笑って。
「仕方ない大人に、もう少し付き合ってくれるとこちらも本当に助かるわ」
こちらに視線を向ける中尉に僕は、もし表情が表に出る身体だったらその時酷く嬉しそうな笑顔を見せていたと思う。
こうやって、ここの人たちはいつも僕たちに素直に甘える事を許してくれる。存在していても良いって言ってくれてるみたいに。
僕たちが禁忌を犯した罪人だと知っていても。
だからこそ、同情してくれているのかもしれない。それでも嬉しいと思う僕はやっぱりまだまだ子どもだなとは少し気恥ずかしくなるけれど、優しい気持ちに触れて嬉しいのはきっと人間なら誰だって同じじゃないのかなとも思う。
早く元の姿に戻って、大佐にまたあの『おまじない』をしてもらいたいなと思った。
どっちかって言うと大佐にしてもらうより中尉にしてもらいたいと思うけれど、それは内緒だ。
鎧の身体には、なくなってしまった感覚がいくつもあるけれど。
「少尉たちもそろそろ戻ってくるから、二人は放っておいてみんなで一緒にお茶でも飲みましょう」
「はい」
こんな時、僕は。
嬉しいとか、楽しいとか感じる感覚までなくなってしまわなくて良かったと。
ここに来るたび、本当に思うのだ。
end
'08.6.15
アルはいいこ。
きっと、一番つよい子。
ほんとはものすっごい、いろんな葛藤がある子なんだろうなーと、思います。
それにしても、大佐は、……馬鹿?